弥左衛門の歴史/幕府と有田皿山の陶業

幕府と有田皿山の陶業

鍋島焼は城内で使用する御道具としても焼かれましたが、そのもっとも大きな目的は京都御所をはじめ、将軍家、徳川諸藩、諸大名への献上品にふさわしい最高級の作品の製作でした。  肥前鍋島藩はそのために藩窯を開きましたが、磁器製作の最先端をいく鍋島藩にとって、その技術を高め秘匿することが極めて重要でした。

白磁窯の創業

 有田皿山での白磁器の焼造開窯期は、元和二年が定説に近く「有田皿山創業調」「多久邑主旧記」「金ヶ江旧記」によると、鍋島本藩の配下多久邑主の領内に移住した李某が、本藩の命をおびて領内の陶石発見の巡見探査を行い、たまたま有田郷内の山境で白磁礦を発見したことが、有田郷皿山をして日本での白磁器創業の地と意義づけたことは有名な史実である。今日やかましくいわれて普及されている「李参平」という氏名は旧記には記録されていない。「李」という性は高麗人であろうが「参平」「三平」という名前は比較的新しい呼び名といえよう。三兵衛が純粋な陶工・工人であったか、どうか判定できないにしても、朝鮮人陶工の一団の中での統率者であり、多久長門守安順の配下で陶業を営んでいた窯主的な地位の人でなかったかと推察される。封建体制下の士農工商の身分の階級の差がいちじるしい時代に、ひとりの朝鮮人陶工の氏名を記録に残すことは考えられないのである。やはり、金ヶ江三兵衛という帰化朝鮮人は鮮土に滞陣の節に道案内物資の調達に相当の便宜をはかり、要領よく立ち回った実力者の1人と思考される。

李参平の碑

 金ヶ江三兵衛、その属下の陶工たちは、多久邑主から有田郷の山境の地、白川谷上の松林のなかの「天狗谷」に移動し、落水を利用した唐臼による陶石の粉砕、登り窯の築構にあたったと推察される。現在、「初期伊万里」と分類して有田皿山の白磁創業の焼造品を珍重がるのは、李朝白磁の陶技が端的に表現され、いかにも開窯期の製品らしい格調を温存しているからである。元和末年から寛永初期には、鍋島藩国老の武雄邑主であった後藤家信の領内にあった宋伝とその妻の百婆仙の下にあった鮮人陶工たちは、有田郷の内山の稗古場、天神森に移動して白磁器の焼造に従事したようである。寛永十四年ごろの有田皿山は、白磁焼成の創業期・初期の時代を経過し、まったく皿山体制が整い、需要供給との不調和、山林の乱伐をはじめ、鮮人の陶工と土着の陶工、農民などの感情対立も深刻となり、鮮人陶工、特に白磁器焼造業を保護するために陶工陶太の藩令を布告している。藩政の有田皿山陶業反映の一端がこのころすでに学ばれ、有田皿山の改革期を迎えたといえよう。

赤絵完成期の有田皿山

 寛永末年ごろから正保年間にわたって有田皿山は飛躍的の陶技が発達した。そのひとつは、南川原の酒井田喜三右衛門(初代柿右衛門)が寛永末年から正保二年前後に中国赤絵を模造することに着目し、伊万里の陶商、東島徳左衛門をとおし赤絵の主顔料(唐石と推察)を入手し、家運が傾くまでの苦労を重ねて、ようやく、日本で始めての磁胎上絵付(赤絵)を完成したことである。初代柿右衛門の赤絵磁器が完成したころは、当時唯一の海外貿易の門戸であった西肥前の平戸港は閉鎖され、徳川幕府の邪宗禁止令・鎖国令によって長崎出島に港は移転したが、その後江戸末期の安政三年(1856)まで、出島の商館をとおしてオランダの東印度会社が肥前有田皿山の染付磁器、色絵磁器を東南アジア・ヨーロッパ地方へ輸出したのである。有田皿山の磁器が注文生産によって正常な貿易ルートにのり、取引されていた。

柿右衛門花瓶)

 当時の有田皿山の色絵磁器をはじめ染付磁器が、相当量取引されていたことを裏付けているとともに、器物の形状は西欧の調度品・食器類を模し、色絵付は、明末清初の中国風の絵模様、字模様を描き、東洋の磁器らしい様式のものを積み出していたことが想像される。寛文十二年、有田内山に対して、さらに規制を定め、窯焼業者百八十戸、赤絵屋十一軒と改め、特に他領に、赤絵付の技術がもれるのを防止する意図の下に、赤絵屋を登録制度にして、有田内山の下幸平の一部に終結し、袋小路化し、赤絵町と呼称し別格な監視と保護を皿山代官に課している。

江戸末期の有田皿山

 有田皿山の安定した染錦製品の量産化が整ったと同時に、裏日本の北海路、表日本の南海路、西海路の海路網が発達し、伊万里津には、表日本の紀州の宮崎・箕島の承認、泉州堺の商人をはじめ、裏日本の酒田・越前・越後・石見などの商人が「廻船問屋」的な役割をかねて伊万里津に長期滞在し、国内の市場に、あまねく有田皿山の内山・外山の窯場の製品を交易したことが、皿山をして黄金期を迎えしめる契機となったのである。このころの有田皿山では条件のよい他領へ出稼ぎにゆく陶工もあり、他領からの出入りも多い。江戸末期まで有田皿山の窯焼をはじめ陶商・陶工・一般人民の生業と日常生活の「掟」として受け継がれた。「手頭」の主な項目は公家御法度の儀、火之用心の儀、博奕、金銀米銭の懸事、勝負、旅人の儀、皿山運上焼物売方の儀などであるが、旅人の滞在は、届出もやかましく郷方の儀として定めているが、なかでも他領への「指南」をきびしく取り締まっている。他国他領の窯場に出向いて、鍋島領内の絵書、細工人が指導することはいうまでもなく、賃銀をとるようなことは法度であり、これをおかしたものは、定めの科銀をおさめ、場合によっては、罪人として処刑することを示達している。加えて、焼物土(泉山の陶石)をも、他領へいっさい移出してはいけない示達をし、たとえ、鍋島領内においても新しい地域に持ち出しを禁じ、有田の内山・外山の窯を中心に泉山の陶石を用いることを規定してあったことを立証している。寛延元年には窯焼、赤絵屋に在来の窯単位の課税を改め窯揚げの度ごとに運上銀を上納することを示達し、宝暦元年(1751)には、窯焼百八十戸、赤絵屋十一軒に対し名代札(永代の職種別免許鑑礼)を交付し、運上銀高を明記し、さらに職種別にも小札を付属し、水漉札、細工札、絵書札、荒仕子札・釜焼札・底取札を交付し、それぞれ札単位に運上銀を課している。明和七年(1770)には、赤絵付の需要が多くなるにしたがって、寛文以来守られていた赤絵屋の件数を十一軒から十六軒に増やし、再登録している。赤絵屋の登録制は、他領に秘法がもれることを気遣っての制度であったが、安永八年(1779)赤絵屋の家督相続について皿山代官が赤絵屋に諮門し、赤絵屋は、自分たちの「座」を守る意味もあって、協議の上で、あらかじめしめされた文案によって答申した結果、一子相伝の「赤絵付、家族家督相続定法」なるいかめしい、新しい「掟」の中で生業を営んだ。このことによって、赤絵の家門を守るために、格子なき監獄にも近い環境の中で、赤絵屋が黙々と生業を続けた封建時代の皿山の断層が推察される。

江戸末期の有田皿山

 近侼の平戸領内の三河内・波佐見の窯場も量産化の体制が整いはじめ、寛政のはじめには天草陶石が利用された。庶民生活の食器として生活用品としての磁器の需要が大幅に累増したことを裏づけている。文政十一年(1828)八月に有田皿山の内山一帯が大火に見舞われ鳥有に帰した結果として、皿山創業以来の変革期を迎え、窯業の転業はいうまでもなく、陶工の移動はあとをたたず、外山・大外山に出稼ぎにゆき、あるいは、四国の砥部、遠くは、東北地方の切込、鼻ヶ岡などの窯場に出向した。当時の内外交易の発展を物語っている。

鍋島藩窯考

 三度藩窯が移動した理由は、平坦地の窯場では、人馬の交通がはげしくなり、諸領内から出入りの旅人も多く、陶技の秘法を守るのに容易ではなく、またすぐれた陶工・職人を安住、確保できないことにあった。藩窯のあった大河内山を「御道具山」と呼び、奉仕した陶工たちを「御細工人」と、呼称している藩窯が、もっとも安定し、秀抜の格式高い、いかにも大名窯らしい焼造品を生産したのは、元禄から享保年間である。「定」の奥付に、有田皿山の民窯(脇窯)の腕ぎきの名工は御用窯の方へ抜擢、雇用するとともに、在来から御細工人として奉公している陶工でも老境になり細工が鈍く下手の場合は解雇することを意味し製品の格調を保持する事を厳達したことがうなずかれる。藩窯製品の意匠模様については江戸や京の絵師などの意匠を徴したのではあるまいかと思考されるほど、享保前後の藩窯品は上方的で構図も奇知に富み、色絵付の配色効果もすぐれている。「色鍋島」の製品は、成型、下絵付、施釉、本窯までの行程を本細工所の大河内でまかない、色絵付(上絵)の工程は、赤絵屋に依託したものであり、御用赤絵屋の伝統は今泉今右衛門が受けついでいる。

鍋島焼花瓶)

 近侼の平戸領内の三河内・波佐見の窯場も量産化の体制が整いはじめ、寛政のはじめには天草陶石が利用された。庶民生活の食器として生活用品としての磁器の需要が大幅に累増したことを裏づけている。文政十一年(1828)八月に有田皿山の内山一帯が大火に見舞われ鳥有に帰した結果として、皿山創業以来の変革期を迎え、窯業の転業はいうまでもなく、陶工の移動はあとをたたず、外山・大外山に出稼ぎにゆき、あるいは、四国の砥部、遠くは、東北地方の切込、鼻ヶ岡などの窯場に出向した。当時の内外交易の発展を物語っている。

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