弥左ヱ門の歴史

有田陶芸の歴史

佐賀県と長崎県の県境にまたがる『肥前皿山地区』は、豊富な天然の資源を背景に、各地区それぞれ『陶磁器』を主産業にしながらも、独自の特色を出しながら発展し、『有田焼』の三大様式『初期伊万里』『柿右衛門』『色鍋島』を確立していきました。さらに、その後の海外との貿易を背景に「金欄手様式」が誕生。それらの様式が時代や商域に合わせながら今日の『有田焼』へと引き継がれてきたのです。

初期伊万里
柿右衛門
鍋島焼
金欄手

有田焼誕生からの流れ

年 代 出 来 事
安土・桃山 唐津焼の発祥。
(松浦古唐津)
黒牟田焼始まる。
(武雄古唐津)
この頃、肥前皿山の内山に位置する有田では、『陶器(土物)』の生産が中心の窯業が盛んに行われていました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵
1592〜1593年 文禄の役
1597〜1598年 慶長の役
別名「焼き物戦争」とも言われる豊臣秀吉の朝鮮出兵。帰塀の際、多くの藩が陶工を日本へ連れ帰りました。こうして、朝鮮より帰化した陶工達は、肥前佐賀鍋島領内や、肥前平戸松浦領内、薩摩島津領内などに住みつき、その地区の窯業発展へと寄与していきました。なお、肥前国鍋島藩主・鍋島直茂が連れ帰った一人が李参平とされています。
江戸
元和2
1616
李参平らにより泉山磁石鉱発見
日本最初の磁器生産
李参平らが有田の泉山で白磁鉱を発見。
そこに天狗谷窯を開いて日本初の
磁器生産を初めました。
磁器創成期 肥前佐賀領内に帰化した『 李朝系陶工 』を中心にして、有田に点在する古窯(中でも天狗谷窯跡は有名)で焼かれていました。

【形状・絵模様】

李朝系磁器を強く反映しており、形状は肉厚で、染付の技法は単調で、薄い色調で李朝染付に類似した絵文様の柳、山水禽鳥、草花、線文などが描かれています。 その後、胎土や釉薬の調整および焼造技術が向上し、製品が安定。意匠、絵模様は李朝様式の中に、中国明末の民窯風な様式が加味されていきます。
初期伊万里 伊万里の製品は多種多様な機能性と意匠文様に富みます。大別して「染付磁器」、「彩絵(五彩、金彩、銀彩、単彩)磁器」、そして初期伊万里の特徴ともいうべき「染錦(染付と色絵、金彩)」に技法分類されます。
初期伊万里の作風は、中国の明末清初の様式から始まり、徐々に狩野派風な絵画的な模様をはじめ各種の工芸品(蒔絵、金工品)などから着想した和風化に推移していきます。技法的には「染錦」とよぶ、いかにも初期伊万里らしい染付と色絵模様を組み合わせた錦手物が焼造されはじめた。
1628 色鍋島登場 鍋島藩が幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品を焼く「御用窯」を有田岩谷川内に設置。
1661年には有田南川原に移転。鍋島藩御用窯では、大名の嗜好にあう、蒔絵や染織品などとの調和を図った、染付、色絵など純日本風の独創的な様式を作り上げらました。これが、一般に「色鍋島」と分類されるものとなります。
1675年には伊万里大川内に移転。そこでは、その独特な青磁の色合いが魅力的な「大川内青磁」も作り出されました。
1646 酒井田柿右衛門、
赤絵付に成功
初代柿右衛門は、寛永末年から正保二年前後に中国赤絵を模造することに着目し、伊万里の陶商、東島徳左衛門をとおし赤絵の主顔料(唐石と推察)を入手し、試行錯誤を重ね、日本で始めての磁胎上絵付(赤絵)を完成させました。なお、この赤絵の技法が、後に有田焼が海外で高く評価される要因の一つとなるのです。
1650 オランダの東インド会社により有田磁器の輸出が始まる
1672 「赤絵町」設置 当時の肥前佐賀領内の窯は、藩外への技術流出を避けるため、全て鍋島藩によって管理・保護され、完全分業の生産体制が布かれていました。特に上絵の調合と赤絵焼成を行う「赤絵屋」は高度な技術を要する仕事であることから、1672年に皿山代官所はそれまで営業をしていた赤絵専門の11軒だけを認め、赤絵屋が増加するのを制限したのでした。

1685〜1735

大量輸出の始まり
伊万里最盛期
1662年、大陸では明朝が滅び清王朝となりました。清朝は鎖国政策を取ったため、極東貿易の独占により巨額の富を得ていたオランダの東インド会社は、中国の景徳鎮窯の陶磁器の入手不可能になってしまいました。そこで、代替としたのが有田の磁器だったのです。有田焼(伊万里焼)は、この貿易の拡大を背景に、高度な技術と感性を駆使した形・色柄・質が追求されて、有田焼の技術は飛躍的に向上します。結果、豪華絢爛たる古伊万里最盛期を迎えることになり、積出港の伊万里の名で有田焼が世界的に通用するようになったのです。

【有田焼とヨーロッパ市場】

有田磁器は当初、中国風の染付けでしたが、17世紀後半になると、元禄文化を反映した日本独自の豪奢な色絵の古伊万里や白い素地と大胆な空間が特徴の柿右衛門様式が作られ、ヨーロッパに輸入されました。これらは、ヨーロッパのバロック趣味・ロココ趣味に合致して、ますます人気を博するようになり、日本磁器獲得に熱心な王侯貴族はアムステルダムまで人を派遣し、東洋から入る船を待機させたと言われています。さらに、その影響は開窯間もないマイセン窯にも及び、1720年代からは柿右衛門模様のマイセンが作られるようになりました。
17c中頃 国内での「いまりやき」の流通が始まる
元禄
1688
〜1704
「金襴手」様式が製造 染付に金彩と赤色をはじめとする多彩な顔料を用いた金欄手様式。

【海外向けの製品】

当時のヨーロッパのバロック・ロココ様式と日本や中国の色絵磁器が溶け合った、東西文化の交じった美しい文様が誕生することになりました。

【国内向けの製品】

元禄時代、町人の生活が充実し、豪華絢爛を求める派手好みの趣味が流行しはじめたことを背景に、色絵の装飾も、空間すべてを文様で埋め尽くすような濃厚なものとなっていきました。
1828 有田大火。有田内山は大被害を受ける。
1867 パリ万博に有田焼を出品。
明治
1868 明治維新。
藩の保護奨励がなくなり、
自立経営へと移ってゆく。
1870 ドイツ化学者ワグネル博士を招き、
近代工業の指導を受ける。
1873 ウィーン万博出品。
石膏型鋳込法、さや積法など新技術を習得。
1875
(明治8)
香蘭社 設立
近代工場の始まり
香蘭社は、鍋島藩の崩壊により藩窯を失った職人たちと商人が集まって作られた「香蘭社」(1875(明治8)年〜)は、日本初の近代工場をもつ会社組織でした。
1879
(明治12)
精磁会社設立。
明治伊万里を製作。
香蘭社から分かれた有力な陶工たちによって、1879(明治12)年に設立された「精磁会社」の「明治伊万里」は、和と洋の意匠が織りなすで精巧な意匠で欧米人たちを魅了し、1883(明治16)年にはオランダ・アムステルダム万国博覧会で金賞を獲得します。しかし、その後わずか十有余年で伝統的な職人技術とともに消滅してしまいました。「精磁会社」の製品は、そのほとんどが輸出用につくられており、唯一の国内での納品先は、浜離宮に隣接した迎賓館や宮内省延寮館ぐらいだったため、今でも入手が非常に難しく、「幻の有田焼」と呼ばれています。
1896 陶磁品評会(現、九州山口陶磁展)始まる。陶器市も同時開催。

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