有田焼の系譜別技法分類

有田について

中国明朝作品の模倣の延長で発展した「初期伊万里様式」に対し、日本的に和様化された色絵磁器の製作が行われた「柿右衛門様式」、さらに鍋島藩御用窯で、純日本風の独創的様式を作り上げた『色鍋島』。『有田焼』の三大様式『初期伊万里』『柿右衛門』『色鍋島』はそれぞれの特徴をもって確立されました。その後時代が進み、元禄期には、当時貿易が盛んだったヨーロッパの文化のバロック・ロココ様式と日本や中国の色絵磁器が溶け合った、東西文化の交じった美しい有田のもう一つの様式である「金欄手様式」が誕生します。

初期伊万里系

有田焼の焼造は17世紀初頭から始まった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの武将が陶工を日本へと連れ帰った。その中の一人が李参平であり、鍋島直茂が連れ帰った。彼が有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた1616年(元和2年)から、鍋島藩が、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在の皿山を形作った1637年(寛永14年)までの有田焼を骨董界ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。

初期伊万里

柿右衛門系

古伊万里の製品は多種な機能性と多様な意匠文様に富むが、大別して染付磁器、彩絵(五彩、金彩、銀彩、単彩)磁器と、古伊万里の特徴ともいうべき染錦(染付と色絵、金彩)に技法分類される。

江戸中期の柿右衛門

李朝風絵模様は比較的少なく、中国の明末の絵模様をことさらに簡略化した、菊花文をはじめ草花文などが多分に図案化され文様化されて描かれている。一般に色絵顔料の純度が低く、不純物が多く、加えて精製されていないので粒子が荒く、色層は厚く鈍い。運筆は力強く、線描はいささか重い。磁肌には、泉山特有の硫化鉄が点々と露呈し、釉肌の中に点在している。


柿右衛門

初期伊万里

見込みの絵模様に山水図、唐獅子などを染付で描き、まわりに五彩の色絵付で菊花文、牡丹文、草花文をていねいに描き、縁の部分を、染付、あるいは、錆釉(ふちべに)をぬり構図全体にまとまりをみせた様式は、この期の製品の様式の特徴である。器物の中に空間を、十分に残し、磁肌本来の美しさをみせ、清楚な簡素な模様を、単彩な色調で描き、限りない品位を温存している。「江戸後期の柿右衛門様式」安永以降(1779)の製品は、多く乱調となっている。その要因は、直接的には経営不振。品種も多岐となり、染付製品も多く作調は急に品格を失う。

鍋島藩窯系

古伊万里の製品は多種な機能性と多様な意匠文様に富むが、大別して染付磁器、彩絵(五彩、金彩、銀彩、単彩)磁器と、古伊万里の特徴ともいうべき染錦(染付と色絵、金彩)に技法分類される。

「藩窯中期の格調」

鍋島藩窯の開窯は、御細工屋として岩谷川内に窯を設け管理運営したことからはじまり、御用窯では、やはり染付磁器の焼造が主であり、文様が簡略されて描かれたのが発見され、あるいは簡単な更紗文様風の資料が発見されている。いうまでもなく色絵付の生地ではなく、純然たる染付の皿類と考察される。


柿右衛門

初期伊万里

藩窯は山境の地大河内山に、三度移窯した。絵模様は、刊行された一連の絵手本に、蒔絵をはじめ、その他の工芸品、なかでも染織品から着想し、きわめて写実的な和風模様の描写と、中近東や中国の近代的な図案文様の描写の二つの様式がこの期の作調である。雇用の御細工人の待遇を改善優遇し、最盛期にはいり、染付、染付青磁、青磁、色鍋島の各種製品ともに安定した技術を保ち色鍋島の高台皿の優品、異形の猪口類、青磁の置物、香炉類などの格調高い製品を焼造している。曲面が水盃に似た美しい高台皿の均衡のとれた形状、精巧な線描、赤、青、黄を主調とした上絵付の配色効果、斬新な絵模様の絵付、力強い線描、高台に線書した櫛目文のきびしさは、色鍋島の伝統ある格調といえよう。

初期伊万里

 

享保前後の作品を模造する程度であり、形状・釉面絵付ともにいささか乱調であり、ことに裏文様・高台文様ともに線描乱れ、全体的に鈍重である。

鍋島藩窯系

古伊万里の中でも国内外問わず人気を集めたのが、染付の藍色をベースに上絵の赤と金彩を施した元禄期(江戸中期)に絶頂を極めた有田焼伝統様式のひとつである"金欄手古伊万里様式″の焼物です。金彩をふんだんに施したこの金襴手古伊万里は、VOC(東インド会社)を通じて多数輸出されており、室内装飾品としてドイツなどのヨーロッパの諸宮殿を飾ったことは有名な話です。

柿右衛門


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